映画『スペンサー ダイアナの決意』公式サイト/10/14(金)全国ロードショー
映画『スペンサー ダイアナの決意』公式サイト/10/14(金)全国ロードショー
Introduction
「ダイアナ元皇太子妃の半生には、愛、悲劇、裏切り、復讐─そのすべてが詰まっている。まさに、現代を象徴する物語だ」と、本作の監督エド・パーキンズは語る。ダイアナ没後25年を迎えた今年、彼女の死が私たちに突きつけた有名人と一般大衆の関係、そして両者をつなぐメディアの問題は、SNSの発展によって、ますます激しく複雑化している。
ダイアナの生きた軌跡を振り返ることが、まさに今の社会をよりよくするヒントになると考えたパーキンズ監督は、ナレーションやテロップによる解説や分析を加えることなく、当時の膨大な資料から厳選したフッテージだけで本作を作り上げた。
その結果、私たちはあの時代の目撃者となる─歴史に残るロマンティックなロイヤルウェディング、息子たちの誕生という幸せの頂点、そんなダイアナをどん底に突き落とした夫チャールズ皇太子の不倫、耳を疑う彼女自身のスキャンダル、暴かれた王室の秘密、世間を驚かせた離婚、その身を捧げ政治さえも動かした慈善活動     。むき出しの映像が語るのは「史上最も愛されたプリンセス」と讃えられたダイアナ。しかし、その「人々の愛」は優しく彼女を包むと同時に、時に残酷に彼女の運命を変えた。
最後に、衝撃的な突然の事故死と、全世界が悲しみに打ちひしがれた葬儀を〈体験〉した私たちは、「彼女を本当に“殺した”のは、誰か」という問いへの〈答え〉を、ひとりひとりが見つけることになる     
Biography
1961年
7月1日、オールドソープ子爵(後に伯爵)の令嬢としてノーフォーク州サンドリンガムのパークハウスで生まれ、ダイアナ・フランセス・スペンサーと名付けられる。
1967年
両親が別居状態に。
1969年
両親が離婚。子どもの親権は父親が獲得。その後は弟チャールズとともにパークハウスで育てられる。(8歳)
1970年
ノーフォークの寄宿学校 リドルズワース・ホール学校に入学。
1973年
ケント州ウェスト・ヒース寄宿学校に入学。
1975年
父がスペンサー伯爵位を継承。ダイアナもLady(姫・令嬢)の儀礼称号を授かる。(Lady Diana Spencer)
この頃からサンドリンガムにて、王室と隣人としての付き合いが始まる。
1976年
父がダートマス伯爵夫人レインと再婚。
1977年
11月、アルソープでの週末の会に招待され、チャールズ皇太子と出会う。
当時チャールズは姉・セーラと交際していた。
スイス ルージュモンにあるアルパン・ビデマネット学院のフィニッシング・スクールに入学。
1978年
アルパン・ビデマネット学院フィニッシング・スクールをイースタータームで退学。
1979年
女王主催のパーティでチャールズ皇太子と再会。ロンドン コールハーン・コートのフラットに転居。
しばらくはアメリカ人夫婦の子どもの世話(チャイルドキーパー)や、ピムリコのヤング・イングランド・スクールで幼稚園の先生をする。
1981年
2月24日、チャールズ皇太子との婚約が正式に発表される。
7月29日、ロンドンのセントポール大聖堂にて挙式。式は全世界で7億5千万人もの人々が視聴したと言われる。
バッキンガム宮殿から大聖堂までの道には、何十万人もの人々が列を作った。
9月、ハネムーンの一部をハンプシャーのブロードランズにあるマウントバッテン家の邸宅で過ごす。
その後、ジブラルタルに飛び、王室ヨットHMY BRITANNIAで12日間の地中海クルーズを行い、エジプトへと向かった。新婚旅行の最後には、バルモラルに滞在。
10月、【公務】ウェールズ訪問。チャールズとの最初のツアー。
結婚後、Her Royal Highnessの称号を与えられる。
夫妻は、グロスターシャー州テトベリー近郊のハイグローブハウスを本宅とし、ロンドンの住まいはケンジントン宮殿のアパートメントを使用した。
1982年
6月21日、第一子ウィリアム・アーサー・フィリップ・ルイ王子を出産。(ロンドン パディントン セント・メアリー病院) バッキンガム宮殿での出産が王室の伝統だったが、ダイアナは最新医療設備のある病院を希望した。
この新たな伝統がキャサリン妃に受け継がれた。
9月、【公務】モナコ公妃グレースの国葬に女王の代理として参列。初の公式海外訪問。
1983年
【公務】幼いウィリアム王子を連れてオーストラリア、ニュージーランドを訪問。
1984年
2月、【公務】ダイアナがパトロンを務めるロンドン・シティ・バレエ団の「カルメン」公演に出席するためにノルウェーを訪問。
初の単独海外訪問を果たす。その後、ドイツ、アメリカ、パキスタン、スイス、ハンガリー、エジプト、ベルギー、フランス、南アフリカ、ジンバブエ、ネパールなど、多くの国を訪問。
9月15日、第二子ヘンリー・チャールズ・アルバート・デイビッド王子を出産。(ロンドン パディントン セント・メアリー病院)
2日後の17日に退院。のちにこの頃から夫婦間の気持ちの上での関係は終わっていたと語る。
1985年
【公務】イタリア訪問。ウィリアム王子、ヘンリー王子も同行した。
1986年
5月、チャールズ皇太子と共に初来日。日本でもダイアナ・フィーバーが起こる。
1987年
ケンジントン宮殿のチャールズの不在が常態化。ダイアナが事実上の女主人に。
二人の王子の養育とともに、「英国エイズ救援信託基金」を財政支援するなど、慈善事業に熱を注ぐようになる。
1988年
【公務】オーストラリア(200年周年記念式典)訪問。
1992年
【公務】韓国訪問。これがチャールズとの最後の共同訪問となった。
12月、チャールズ、ダイアナ両者が別居に合意したことが発表される。
ダイアナはケンジントン宮殿に住居と執務室を置き、チャールズはセント・ジェームズ宮殿を拠点に、引き続きハイグローブに住むことに。
1993年
12月、【公務】「有意義な公的役割とより多くの私的生活」を両立させるため、公的生活の範囲を縮小することを発表。
1994年
6月29日、Vanity Fair主催のチャリティディナーに出席するため、ロンドンのサーペンタイン・ギャラリーを訪問。
同日、チャールズはカミラ夫人との関係を認めた。
1995年
9月、ウィリアム王子、イートン校に入学。
【公務】チャールズと別れることを公表した後もVE(ヨーロッパ戦勝)、VJ(日本戦勝)50周年記念式典など、国の主要行事にはロイヤルファミリーと共に出席。
1996年
8月28日、離婚成立。親権は両者平等に持った。
離婚後も王室の一員として扱われ、「Diana, Princess of Wales」と呼ばれることに。
ケンジントン宮殿に住み続け、事務所もそこに置かれた。
離婚後、王室の公務はほとんど無くなるが、ホームレス支援団体「センターポイント」、イングリッシュ・ナショナル・バレエ団、ハンセン病患者支援団体、ナショナル・エイズ・トラストの後援者、グレート・オーモンドストリート小児病院とロイヤル・マースデン病院の理事長は引き続き務める。
1997年
6月、【公務】ロンドンとニューヨークのレセプションに出席。公式行事で着用した数多くのドレスやスーツを販売し、その収益をチャリティに寄付する内覧会を開催した。
7月1日【公務】テート・ギャラリーの100周年記念式典に出席。
英国での最後の公式行事は、7月21日のロンドンのノースウィック・パーク病院(小児救急医療施設)の訪問。
8月31日午前0時35~40分頃、パリで交通事故にあう。病院に搬送されるが、午前4時に死亡が確認された。
同乗していた恋人ドディ・アルファイドと運転手も死亡した。
9月6日、ウェストミンスター寺院で葬儀。
葬儀後、棺は陸路でオルソープにある一族の屋敷に運ばれ、湖の真ん中に浮かぶ島の神聖な場所に埋葬された。
Staff
監督  |  エド・パーキンズ
ED PERKINS  |  Director
Netflix、BBC、HBO、Sky、The Guardian、ナショナルジオグラフィック、Channel 4の作品を監督し、数々の国際的な映画賞を受賞し、アカデミー賞®ノミネート歴もあるドキュメンタリー映画監督。2007年、Channel 4とFX Studiosのドキュメンタリー番組『Bare Knuckle Fight Club(原題)』で、英タイムズ紙に「今年最高のドキュメンタリー作品」と絶賛される。続いて、『プロジェクト・ニム』(11)とBAFTA受賞作『The Imposter(原題)』(12)、さらにアカデミー賞®受賞作『シュガーマン 奇跡に愛された男』(12)の製作舞台裏ドキュメンタリーを監督。2014年、自身初の長編ドキュメンタリー映画『Garnet’s Gold(原題)』がトライベッカ映画祭でプレミア上映され、グリアソン・アワード最優秀新人賞を始めとする多くの賞を受賞。2015年、映像業界で働く有望な若手イギリス人をサポートするBAFTA Breakthrough Britsに選出される。同年公開の短編ドキュメンタリー『If I Die On Mars(原題)』は、複数のプラットフォームで合計100万回を超える再生回数を記録。2018年、The Guardianの委託で監督した短編ドキュメンタリー『Black Sheep(原題)』で13の国際的な賞を受賞し、アカデミー賞®短編ドキュメンタリー映画賞ノミネートを果たす。2019年、Netflixオリジナルの長編ドキュメンタリー『本当の僕を教えて』で英国インディペンデント映画賞にノミネートされる。本作は3本目の長編ドキュメンタリー映画となる。
製作  |  サイモン・チン
SIMON CHINN  |  Producer
近年最も評価された長編ドキュメンタリーを、数多く手がけているプロデューサー。2008年、自身初となる劇場公開長編ドキュメンタリー『マン・オン・ワイヤー』をプロデュースし、BAFTA英国作品賞とアカデミー賞®長編ドキュメンタリー映画賞を始めとする40以上の国際的な賞を獲得。その後、『プロジェクト・ニム』(11)、『ボリショイ・バビロン 華麗なるバレエの舞台裏』(15)などの長編ドキュメンタリーで多くの賞を受賞する。世界で2000万ドルを超える興収を上げた『シュガーマン 奇跡に愛された男』(12)では、BAFTAとアカデミー賞®を受賞。2014年、製作会社Lightboxを設立。2015年には『My Scientology Movie(原題)』がイギリス国内で興収110万ポンドを上げ、イギリスの長編ドキュメンタリー映画の歴代興収の上位にランク入りする。ロサンゼルス暴動を描いたナショナルジオグラフィックの『LA 92(原題)』(17)はエミー賞を受賞。The Guardianと製作した短編ドキュメンタリー『Black Sheep(原題)』(18)は、アカデミー賞®ノミネートを果たす。『Tina(原題)』(21)はティナ・ターナーが全面的に製作に携わって作られた唯一の長編ドキュメンタリー映画で、HBOとHBO Maxでの放送/配信に加え世界で劇場公開され、エミー賞で3部門にノミネートされる。
製作  |  ジョナサン・チン
JONATHAN CHINN  |  Producer
アカデミー賞®ノミネート歴と、『LA 92(原題)』(17)、「American High(原題)」(00)で2度のエミー賞受賞歴を誇るプロデューサー。2014年、従兄弟のサイモン・チンと共にLightboxを設立。その他に特に注目すべき作品は、『ATARI GAME OVER アタリ ゲームオーバー』(14)、アカデミー賞®にノミネートされた短編ドキュメンタリー『Black Sheep(原題)』(18)、ハーヴェイ・ワインスタインのスキャンダルを描き、サンダンス映画祭でプレミア上映された長編ドキュメンタリー『Untouchable(原題)』(19)、Netflixの画期的なドキュメンタリーシリーズ「ダイアグノーシス -謎の症状を探る-」(19)、テルライド映画祭でプレミア上映されたNetflixの長編ドキュメンタリー『本当の僕を教えて』(19)、ベルリン国際映画祭でプレミア上映され、エミー賞にノミネートされたHBOとSkyの『Tina(原題)』(21)、マルコムXとモハメド・アリの究極に悲劇的な友情を描いたNetflixの『Blood Brothers: Malcolm X & Muhammad Ali(原題)』(21)など。
共同製作  |  ヴァネッサ・トヴェル
VANESSA TOVELL  |  Co-Producer
長年、フリーランスのプロデューサー、ラインプロデューサーとして様々な賞を受賞した上質なドキュメンタリーやインディペンデントの長編映画を手がけ、2015年に最高執行責任者(COO)としてLightboxに参加。素晴らしいチームのサポートのもと、Lightboxのすべてのプロダクションから、ロンドンとロサンゼルスの両オフィスの経営と運営面まで監督しつつ、Lightboxの長編ドキュメンタリー全作品を共同プロデュースしている。代表作は、多くの賞を受賞した『The Imposter(原題)』(12)、『My Scientology Movie(原題)』(15)、『LA 92(原題)』(17)、『ホイットニー ~オールウェイズ・ラヴ・ユー~』(18)、アカデミー賞®ノミネート短編映画『Black Sheep(原題)』(18)、『Untouchable(原題)』(19)、『本当の僕を教えて』(19)、『Tina(原題)』(21)など。
編集  |  ジンクス・ゴッドフリー
(アメリカ映画編集者協会会員)
JINX GODFREY, A.C.E  |  Editor
数々の賞を受賞したHBO / Sky Atlanticの「チェルノブイリ」(19)の共同編集でBAFTAを受賞。ジェームズ・マーシュ監督のアカデミー賞®受賞長編ドキュメンタリー『マン・オン・ワイヤー』(08)とBAFTA受賞作『博士と彼女のセオリー』(14)の編集を手がけ、アカデミー賞®受賞作『オクトパスの神秘:海の賢者は語る』(20)では編集顧問を務める。その他、デヴィッド・ヘア監督の「MI5:消された機密ファイル」(11)、ケヴィン・マクドナルド監督の『わたしは生きていける』(13)、ジョディ・フォスターが監督した「ブラック・ミラー」(17)などの様々な監督とタッグを組む。CMの編集も20年以上の経験があり、これまでスサンネ・ビア、エロール・モリス、トム・フーパー、オーウェン・ハリス、マイク・フィギス、スパイク・リー、ダンテ・アリオラ、トニー・ケイら多くの監督のCMの編集を手がけている。
編集  |  ダニエル・ラピラ
DANIEL LAPIRA  |  Editor
製作チームと緊密に協力しながら独自の言語と形で物語を伝える、ロンドンを拠点とする編集者。ドキュメンタリーから長編映画、短編映画、TVシリーズまで、様々なジャンルやスタイルの作品を幅広く手がけている。故郷マルタ島で撮影された様々なスタジオの映画やインディペンデント映画の編集室で編集アシスタントとしてキャリアをスタートさせ、スティーヴン・スピルバーグ監督の『ミュンヘン』(05)や、ケヴィン・レイノルズ監督の『復活』(16)などに編集スタッフの一人として参加する。『Dual(原題)』(11)(第55回BFIロンドン映画祭公式選出作)など多くの短編映画を編集した後、初めて手がけた長編『Simshar(原題)』(14)は数々の賞を受賞し、マルタ島の映画で初めてアカデミー賞®外国語映画賞(現在の国際長編映画賞)に出品される。
音楽  |  マーティン・フィップス
MARTIN PHIPPS  |  Composer
20世紀イギリスを代表する作曲家ベンジャミン・ブリテンを名付け親に持つという、音楽に縁ある環境で育ち、芝居の道を志しマンチェスター大学で演劇を専攻するも作曲にエネルギーを集中させることを決意。初めてTVシリーズの音楽を手がけた1999年の「Eureka Street(原題)」以降、近年最も評価の高いTVシリーズの数々の音楽を担当し、これまでBAFTAを2回受賞、英国作曲家協会が主催するアイヴァー・ノヴェロ賞の受賞、さらにエミー賞にも複数回ノミネートされている。代表作は、BBCの「戦争と平和」(16)、ヒューゴ・ブリック監督の「オナラブル・ウーマン 熱砂の女」(14)、「ピーキー・ブラインダーズ」(13)、「ブラック・ミラー」(11~16)、Leftbank Pictures/Netflixの人気シリーズ「ザ・クラウン」のシーズン3&4(19~20)など。映画の代表作としては、『狼たちの処刑台』(09)、『ブライトン・ロック』(10)、ライアン・レイノルズ、ヘレン・ミレン主演、ハンス・ジマーと共同作曲した『黄金のアデーレ 名画の帰還』(15)、キーラ・ナイトレイ、アレキサンダー・スカルスガルド主演の『モーガン夫人の秘密』(19)などがある。様々なアーティストや作曲家のコラボを支援し、自身の楽曲開発のプラットフォームともなるプロジェクト「Mearl」を立ち上げる。「ピーキー・ブラインダーズ」のサウンドトラックは「Mearl」名義で手がけた最初の作品で、レディオヘッドがロンドン・フィールズに設立したLaundry Studios出身のミュージシャンたちと共に作曲した。
アーカイブ・プロデューサー  |
サム・ドワイヤー&ゴードン・キング
SAM DWYER and GORDON KING  |
Archive Producers
サム・ドワイヤーはドキュメンタリーや長編映画、CM、芸術プロジェクト、ポッドキャストなどのためのアーカイブ資料のリサーチやライセンス手続きに関する経験豊富なアーカイブ・プロデューサーを集めたFourth Drawer Filmsの創設者。ゴードン・キングも同社に所属している。彼らはこれまで幅広いドキュメンタリー作品に携わり、特にホイットニー・ヒューストン、ボブ・マーリー、The KLF 、ジャネット・ジャクソン、ジョー・ストラマー、ジェネシス、ザ・ジャム、エリック・クラプトン、シャナイア・トゥウェイン、ジョージ・ハリスン、ピンク・フロイド、ザ・ストーン・ローゼズなどをフィーチャーした音楽映画を多く手がける。近年は、「This Is England '90(原題)」(15)、『ロケットマン』(19)、「チェルノブイリ」(19)、「スモール・アックス」(20)、『Everybody's Talking About Jamie ~ジェイミー~』(21)、『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』(21)、『Thirteen Lives(原題)』(22)、『The Northman(原題)』(22)など、映画からTVシリーズまで様々な話題作に貢献している。